<リハビリの風景> 少女と戦争

戦時中の女子学生のイラスト

こんにちは

人生の大先輩の口から、ぽろっとこぼれるいろいろな話。

戦争を経験した方々からは、今の私たちには想像もつかない話もあります。

2人の少女

通所リハビリテーションで顔を合わせる2人の女性。

昭和6~7年(1931~32年)生まれのお2人は、終戦の時は13~14歳の多感な年頃でした。

Aさん「あの頃は学徒動員で大変だったわ」

Bさん「私たちの学年は行かずに済んだわ」

Aさん「それは良かったね。私は〇〇市の軍事工場に行って、働いてたわ」「終戦の時は電車が止まってて、皆で歩いて帰ってきたよ」

Bさん「でもこっちも食べ物がなくてね~ 白いお米なんてなくて、せいぜいおかゆ」

Aさん「歩いて帰ってきたけど、その後に栄養失調で亡くなった子もいたわ・・」

こんなお話を、歩行練習などをしながら、さらっと交わされる2人。

私は横でただ唖然としているだけです・・ 頭の中には多数の?? 歩いて帰れる? 戦後に田舎で若者が亡くなる?

何とか「〇〇市からここまでって、すごく遠いですよね」と話しかけるだけで精一杯でした。

学徒動員

後から調べてみました。

学徒動員とは、中等学校以上の生徒や学生が、軍需産業や食料増産に動員されたこと。

1943年以後は本格的に学徒動員が実施され、44年には原則として通年動員の態勢となり、45年春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止され、全学徒は決戦体制に総動員された。

そんな時代を、2人の女性は生きてきたのです。

徒歩で帰省する

これも調べてみました。

〇〇市から地元の市まで、48㎞の距離があり、11時間程度かかるようです。

先生に連れられた少女たちが、故郷を目指して帰る時は、ほっとした気持ちやうれしい気持ちが混ざっていたのでしょうか。

終戦後に栄養失調で逝去

調べてみると、戦争が終わっても「ひもじい」という言葉が世の中を覆い、配給の食料だけでは足りず、栄養失調死する人も少なくなかったそうです。

人々は焼け残った着物や家財を元手に、買い出しとヤミ市に頼る生活を強いられ、農家から直接食料を手に入れるための農村に電車で行くこともあったそうです。

着物とお米を交換したという話は、何度か皆さんから聞いたことがあります。

今の世の中に感謝を

そのような時代に生きてきた方が、私の目の前におられます。

ものの考え方などが違って当たり前。多感な時期に、大変な時代を生きておられます。

戦後の平和な時代に、大した苦労もせず、ひもじいなんて言葉は無縁に育った私たちとは、生き様が違います。

大先輩の人生に、少し思いを馳せながら、若造の私ができるお手伝いをしていきたいと思います。

 

じゅん

作業療法士をしています。 読書と山歩き、音楽が好きです。 詳しいプロフィールはこちら。

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